古田敦也とメガネに関しての記事
2015年1月26日 東洋経済 より
無名のメガネ捕手、古田が殿堂に入ったワケ
「メガネ男はプロじゃ無理」を覆した反骨心」
うれしくてメガネが、野球殿堂博物館の表彰委員会は1月23日、競技者表彰のプレーヤー表彰で頭脳派捕手として活躍した元ヤクルトスワローズの古田敦也さんを選出した。
立命館大学からトヨタ自動車を経て、1989年ドラフト2位でヤクルトに入団。2006年からの2年間は監督も兼ねた、合計18年間にわたる現役生活、勲章は山ほどある。
裸眼は0.1、一般大学受験で一気に視力低下し窮地に
1年目の1990年に新人選手初のゴールデングラブ賞を獲得。1991年にセ・リーグ捕手初の首位打者に輝いた。5度のリーグ優勝、4度の日本一に貢献。1993年、1997年MVP。1997年には正力賞にも選ばれた。2005年には大学、社会人を経てプロ入りした選手では史上初の2000安打を達成。ベストナイン9度、ゴールデングラブ賞10度を数える。その中で...。
殿堂入りした功労者のレリーフが並ぶ野球殿堂博物館殿堂ホール。「一番誇れる記録は?」と聞かれた古田さんは「そうですね...」と言って一瞬を置いてから話始めた。「どれが一番かよくわからない。とにかく無我夢中で毎日必死にやった結果なんでね。ただ、う~ん...記録っていうか、メガネをかけてやってこれたことかな。眼が悪くてメガネをかけたプロ野球選手はダメだって言われた時代なんでね。高校生を含めて結構たくさんの人に”メガネをかけてるんですけど、おかげで野球続けています。と言われて、やった甲斐あったかなと思いましたねえ
無名のメガネ捕手、古田が殿堂に入ったワケ
「メガネ男はプロじゃ無理」覆した反骨心
プロ入り当時の視力は「裸眼0.1くらいかな。(視力検査表の)一番上が見えるかどうかだったから」。おまけに乱視がきつかった。「当時の乱視用のソフトレンズがなくて、矯正するにはメガネしかなかった」。矯正視力は1.2あってという。メガネをかけるようになったのは大学に入ってから、兵庫県の川西明峰高校時代は視力が0.5ぐらいあって裸眼でプレーしていたが、「受験勉強で一気に悪くなった」という。一般入試で立命館大学経済学部に合格。その代償として視力が低下した。タテの規律が厳しい体育会。キャンパス内で先輩に合えば、大きい声であいさつななければならない。「見えませんでした、きがつきませんでしたじゃすまされないんで、もうメガネをかけるしかないと...」。こうしてメガネの捕手が誕生したのである。
メガネのせいで「無視」されたドラフト、
反骨心に火が付いた
無名であったが、高校時代から秘かに注目される存在。卒業どきにはドラフト外で巨人と広島から誘いがあった。進学を決めていたから断り、立命館に入学。大学でも着実に力をつけ、4年どき1987年には大学日本代表のメンバーに選ばれた。大学卒業どくは複数の球団から話があり、条件として出した「上位指名」を約束してくれたところもあった。ところが...。記者会見場を用意して待ったが、どこからも指名がかからないまま、1787年のドラフト会議が終了した。どの球団もメガネで腰を引いたのである。
「恥ずかしかったし、悔しかった。それで反骨心が生まれたんでしょうね。絶対生き残ってやるという...」。雪辱の思いを胸に社会人のトヨタ自動車に入社。1年目から正捕手の座につき、野球が1984年のロサンゼルスに続いて公開競技として行われた1988年ソウル五輪の日本代表に選出された。野茂秀雄や潮崎哲也らとバッテリーを組んで銀メダル獲得に貢献。翌1989年のドラフト前は、阪神を除く11球団から話があった。
ヤクルトの当時のスカウト部長、片岡宏雄さんからこんな話を聞いたことがある。社会人日本選手権でトヨタ自動車が敗れたその日に愛知県豊田市を訪れ、古田さんに「上位で指名する」と伝えたらーー。「”ホントですか?ウソじゃないでしょうね”と言うんだ。心では思っても、なかなか言えないよ。スカウトに面と向かって”うそじゃないでしょうね。なんて。まさに捕手の性格。しかも堂々と言った。相当なもんだと思ったね」猜疑心は一流捕手の条件のひとつ。二度惚れした片岡さんはメガネで尻込みする現場の声を抑え込み、約束通り2位指名を実現したのである。
古田さんは晴れて入団したヤクルトで野村克也監督と出会い、「ID野球」を徹底的に叩き込まれる。「怒られることがいっぱいあって、ついていくのがやっとだった。要求がどんどん高くなって厳しかったけど、今があるのは監督のおかげです」捕手だけの評価で殿堂入りは野村、古田両氏のみ。恩師はヤクルト監督就任前年の1989年に殿堂入りしている。捕手出身ではその後、2001年の根本隆夫さん、2003年の上田利治さん、2005年の森祗昌さんらが殿堂入りしているが、いずれも監督やチーム編成としての手腕を評価されての栄誉。純粋に捕手としての評価で殿堂入りしたのは、野村さんと古田さんの師弟コンビだけである。
いや、古田さんにはもうひとつの評価があった。近鉄とオリックスの合併に端を発した球界再編に揺れた2004年、日本プロ野球選手会長として12球団の選手をまとめ、ストライキを敢行し、一部オーナーが進める「8もしくは10球団による1リーグ制」への流れを食い止めた。「球団を減らすのは危険な行為だと思っていました。多くの人に迷惑をかけることになったけど、ファンの皆さまに答えていただき12球団を維持することができました。」
いや、古田さんにはもうひとつの評価があった。近鉄とオリックスの合併に端を発した球界再編に揺れた2004年、日本プロ野球選手会長として12球団の選手をまとめ、ストライキを敢行し、一部オーナーが進める「8もしくは10球団による1リーグ制」への流れを食い止めた。「球団を減らすのは危険な行為だと思っていました。多くの人に迷惑をかけることになったけど、ファンの皆さんに答えていただき12球団を維持することができました」
野茂英雄さんがゲストスピーチをしてくれた殿堂ホールから隣接する東京ドームホテルに移動して開かれた小宴には、選手会の松原徹事務局長が駆けつけてくれた。「おめでとうございます。こんなにうれしいことはありません。」11年前、ともに闘った仲間にお祝いの言葉をもらった古田さん。反骨心と強い意思が宿るメガネの奥が、このときばかりは無防備に緩んだ。
永瀬郷太郎(ながせごうたろう)スポーツニッポン編集委員
1955年、岡山市生まれ。早稲田大学卒。浪人時代1979年10月14日、予備校の講習申し込みをパスして後楽園球場へ走り、左翼スタンドで長嶋茂雄の「わが巨人軍は永久に不滅でs」に涙する。1980年、スポーツニッポン新聞東京本社入社。1982年からプロ野球担当になり、巨人、西武の番記者を歴任。遊軍記者として中日や阪神、オリックス、ダイエー(現ソフトバンク)などを幅広く取材する。2001年から編集委員。2005年に「ドキュメント パリーグ発」、2006年は「ボールパークを行く」などの連載記事を手がける。共著に「たかが江川されど江川」(新潮社)がある。野球殿堂競技者表彰委員会代表幹事。